皆さん、こんにちは。運営委員です。
いつも自己発見の会をご支援いただき、ありがとうございます。
今回はタイトルにあるように、意味付けということについて考えてみました。
失敗という言葉にみなさんはどのようなイメージをもたれますか?マイナスにとらえられる方が多いのではないでしょうか。私もそうでした。失敗という言葉を聞くだけで、それが起きてしまうんじゃないか、という予期不安と恐怖に近い感情がわくほどでした。しかし、失敗の見方が変わる視点を与えてくれる本に出合いました。“嫌われる勇気”という本をご存知でしょうか。その一節に“人生に意味はない”、という文章が書かれています。
はじめ“人生に意味はない”の文章は理解できませんでした。人生には意味がある、自分のやっていることには意味がある、そう信じたかったのです。今思うとそれは、自分が勝手に決めた“決めつけ”だったのかもしれません。人生の意味についてわからないまま数か月が過ぎました。そのような時間が経過しながらも、いろんな本に出合い、人と出会い“人生に意味はない”という言葉に対して自分なりの本質がつながりだしました。
自分という人間から離れて自分を観たときに、「それはあなたが付け加えた人生の意味だ。」と自分に言われているような気がしました。動物は意味を考えながら生きているのだろうか、木や雲は意味を考えながら生きているのだろうか、川を流れている水は意味を考えながら流れているのだろうか。それら自然にあるものはきっと意味はもともとなくそこにただ“ある”“存在している”状態、ただそれだけでそれ以上・以下、基準などといった評価は本来ないんだろうなと思いました。人間が動物や木や雲、川などに意味を必要とし、評価、判断、価値観を付け加えていて、そうすることで人間が進化することにとって利益があったのだろう、そのようなことをおもいはじめました。
あらゆる出来事は“意味のないもの”で人間が“意味づけしたもの”という前提があるとしたら、出来事(失敗や成功など)についてどちらかに決めてしまうことに社会的な正解はあっても、本質的な正解はないのではないはずです。2社択一の世界から離れた価値観がそこにはあるような気がします。そう考えると、どちらを選んでも正解はなく、曖昧であり、“自分”という人間が選択したい方を選べる自由があり、どちらを選びたいか選択できる自分が在る、そう思いました。
“意味を付け加えている”というニュアンスは自動的に行っているというニュアンスがありますが、“意味を付け加えることができる”ということは、新しい意味を付け加えることができる状態です。内観においても、内観三項目という視点で通して観た過去は新しい意味を付け加えてくれます。過去の思い出に対して、自分にとっての価値となる意味付けをしていきたい、そう思いました。
読んでいただきありがとうございました。
次回もお楽しみに。